日曹飯豊鉱山にかつて住んでいた方に伺いますと上流集落は「上(かみ)の部落」、下流集落は「下(しも)の部落」と呼んでいたそうです。
そして子供たちは単に「かみ」と「しも」と言い合っていて、遅くまで「かみ」で遊んだ後は居住区の「しも」に帰る道が怖くて駆け足で戻ったそうです。
「部落」という言葉は、いつの間にかトゲのある意味合いに取られるようになって、私も集落という言葉を選んでいるのですが、子供の頃は何々部落というのが当たり前でした。学校での集会も部落会議と呼んでいたくらいです。
赤谷地区は「日鉄部落」「赤谷部落」「滝谷部落」「新田部落」「日曹部落」の五部落でした。
さて写真ですが、場所は飯豊小学校の校庭の端のようです。テニスコートの後の建物は所長宅だそうです。