緑の谷・赤い谷*

新潟県にかつてあった鉱山の記録と周辺の昭和の記録と・・・お散歩。(旧名「猿と熊の間に」)

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2008年04月

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昭和四十一年春撮影 東赤谷駅構内から中央奥に蒜場山、右が俎倉山。


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昭和四十一年春撮影 左奥が蒜場山、右の二瘤が俎倉山。スイッチバックと線路の勾配が分かりやすい。


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昭和四十一年春撮影 赤谷線と蒜場山。左側に見える橋は、滝谷部落へ通じる『ほうな橋』。

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昭和45年8月撮影 購買所前から裏山に向かって。


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昭和45年8月撮影 階段の上から駅方向に向かって。道路左が購買所。


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昭和53年8月撮影 右の建物が購買所。

 社宅の1区と2区の境を南北に通る道がある。そこが社宅のメイン道路で、階段を降りたところから駅に向かう間が一番の賑やかさがあった。その道路に面して建つ会社の購買所は、東京の銀座でいえば松坂屋みたいなものである。売る品数は少なくとも、多岐にわたってあらゆる食品・生活雑貨が並んでいた。

 クリスマスになるとケーキも売られ、いろいろなオモチャまでもが並んだ。だが当時はどこの家も等しく貧乏で、なかなかクリスマスプレゼントにオモチャなんか買ってもらえない。私は今でも、まざまざと思い浮かべる光景がある。それは陳列棚に置かれた1台のブリキ製のジープだ・・・・欲しかった、毎日のように見に行った、しかし親には言えなかった。

 あの頃の買い物は量り売りが多かった。醤油・味噌・米は、ビンや鍋といった容器を持って買いに行った。そして支払いは帳面が多かったように思う。帳面というのは、代金を現金で支払うのではなく、金額を帳面(ノート)に付けてもらい、給料日にまとめて支払うシステムのことである。今の世のカード支払いのようなものか・・・。

 購買所の前には軒が長く出ていて、下はコンクリート面で平らになっていた。この軒下は子供達にとって大変貴重な空間で、平らな面でのビー玉や、パッチ(メンコをこの辺ではパッチと呼んでいた)をはじめ、いろんな遊びのたまり場になっていた。特にありがたく思ったのは冬だった。辺り一面が雪野原でも、ここだけは乾いた空間が存在していたからだ。

 時に、この軒下はギャラリーにもなった。安全週間になると、大人も子供も社宅中の人達がポスターや標語を作成し応募する。その優秀作品が、ここの壁面に張り出されるのである。ポスターには日鉄のマークを入れるのが、お決まりであった。

参照画像。http://blogs.yahoo.co.jp/yabukarasu/6956195.html

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当時の冬は大雪が多かった。三八豪雪と呼ばれる昭和38年には赤谷線が10日間にわたってストップした。
食べるものにも苦労した記憶がある。
現在のように除雪車も入ってこなかった。カンジキでつけた1本道があるだけだ。

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坑口への階段。676段ありました。
一段の幅が狭くて急な階段は、鉱員泣かせでした。



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加治川に架かっていた吊橋の一つ。
主に鉱山で働く人が渡ってた。

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