緑の谷・赤い谷*

新潟県にかつてあった鉱山の記録と周辺の昭和の記録と・・・お散歩。(旧名「猿と熊の間に」)

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2008年08月

 昭和30年代の半ば、我が日鉄社宅にもテレビジョンがやって来た。山間で、それまで受信不可能であったが、裏の山に電波塔が立ちテレビが映るようになった。その第一号のテレビジョンが入ったのが組合事務所である。

 事務所内の畳敷き広間の床の間に、そのテレビジョンは据え置かれた。相撲取りの化粧廻しのような布を全面に垂らし、鎮座するテレビは子供にとって触れるのさえ躊躇われたものである。

 事務所は浴場の直ぐ近くにあったので、風呂上がりに立ち寄る人が多かった。時は大相撲の全盛時代である。相撲放送の時間帯は洗面器を抱えた大人・子供で広間は一杯になった。今も覚えているが栃錦と若乃花の全勝対決の千秋楽は、大変な賑わいであった。やがて東京オリンピックを前に、社宅の各家々にもテレビがポツポツと入るようになり、組合事務所のテレビの役割は終わった。

 当時、受信可能なテレビ局は、「NHK総合テレビ」「NHK教育テレビ」「新潟放送テレビ」の三局だけだった。必然、子供たちは同じような番組を見ていた。てなもんや三度笠・スチャラカ社員・怪傑ハリマオ・少年ケニヤ・赤影/白影・オオカミ少年ケン・隠密剣士等々、楽しかったなぁ。腹から笑えて興奮出来たあの頃が懐かしい。

観月橋から職員社宅方面を望む。左上の建物は事務所。
鉱員社宅の子等は、中々ここから先に入り辛いものがあった。昭和39年撮影。
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 夏、水浴場と認められたところは3カ所あった。一つは発電所と呼ばれる飯豊川第一発電所脇の川原。そしてそこの上流で、グランド周辺の川原(現在の滝谷森林公園の辺り)。三つ目はさらに上流を行ったところの、通称カジガシュクと呼ばれていた華人合宿跡近くの川原である。

 それぞれの川原にはそれぞれの特徴があった。発電所は大きめの石がゴロゴロしていて、流れは瀞と浅瀬の繰り返しで、川幅が狭く流れが一番速かった。グランドは砂原が広く、流れもゆったりとしていて浅い部分も多かったため、小さな子供たちがよく利用していた。カジカシュクは広い川原の端に大きな岩があって、その下がちょうど天然のプールのようになっていた。

 小学校高学年や中学生に一番人気があったのはカジガシュクだったと思う。岩の上から飛び込んだり、その滑らかな岩肌の上で寝転び日焼けしたり、下の淵を潜って手製のゴム付き銛(確かテッポウと呼んだか?)でウグイを突いたりと、変化に富んで楽しいところであった。

 岩にまつわることで、カジガシュクから少し上流の、川のほぼ真ん中に、だいたい2m程の大きさの岩があった。この岩のことを、この辺の子供たちは特に「菊石」と呼んでいた。なぜ「菊石」と呼ぶかというと、その形状からであった。その岩の表面は菊の花びらのような模様で一面覆われいていたのである。

 何気なく見ていたその岩の表面を、後年良く観てみると、菊の花びらかと思っていたそれは、一つ一つの貝の化石であった。この辺は昔海だったのかと、改めて感慨に耽ることとなった。

 川の真ん中にあった「菊石」は、昭和41・42年の下越水害にも流されることなく堪え残っていたが、その後どうしただろう。もう何年も見に行っていない。今もあの場所にあるのだろうか・・・・。

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「新潟県新発田市東赤谷」これが私の生れた故郷の住所です。 そこにはかつて日鉄赤谷鉱業所の社宅が存在し2~4世帯入った棟割り長屋が50数棟ありました。また他の施設、関係各社の建物も含め、多い時には700~800人くらいの人々が住んでいたのではないでしょうか。
 この社宅群の位置は、ほぼ北東に面していて前に飯豊川(加治川)の流れを見て、背後には山がせまる言わば河岸段丘の上にありました。
 ここで私は18歳の春までを過ごしました。それからもう半世紀近くにもなろうというのに、未だに強くあの頃のことが忘れられません。いや、年が経つとともにより一層望郷の念が強くなっています。それは、もう鉱山も閉じられ、鉄道も廃線となり、社宅群も跡形も無く今や草木生い茂り、猿や熊が出没し、まったくの自然に還った姿を目にしたせいかもしれません。
 今、あの地を見た人達が、かつて此処に何百人も暮らし、鉱山で働くために大勢の人々がここを通過して行ったなどと誰が想像できましょう・・・・。
 私は、せめて何かの形で故郷の証しを残しておきたいと思いました。このブログもその一つであってほしいと思っています。

★★★★ お願い★★★★
東赤谷や日鉄赤谷鉱業所に関する写真や資料がありましたらぜひお寄せください。
また、赤谷温泉ホテル、湯の平温泉の情報もいただけると嬉しいです。
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写真:日鉄赤谷鉱業所社宅全景(日鉄鉱業四十年史より)

 幼稚園、正確には「日鉄鉱業株式会社 赤谷鉱業所保育園」という。就学前の4・5歳児を預かり、2クラスがあった。

 私が在籍していた頃で2クラスの児童は約60名であった。2クラスでこれだけの子供がいたのだから、我々の先輩と後輩を足せば、この頃の社宅には実に多くの子供たちがいたのがわかる。先生は女の先生が二人で、園長は会社の所長がなっているようだった。

 園の前は広場になっており、通称「幼稚園広場」と呼び、社宅の子供たちの最大の遊び場となっていた。シーソー、ブランコ、ジャングルジム、鉄棒、雲悌、砂場といった遊具が設けられており、缶蹴り、鬼ごっこ、かくれんぼ、ビー玉、釘刺し、馬乗り等々、多種多様な遊びに興ずる子供たちの喚声が夕暮れまでの間響き渡っていた。中には時間も忘れ遊び回っている子もいて、そんな時は親や、その兄弟が、その子の名を呼び連れ帰ることも間々あった。

 園の裏には鉱山迄まだ蒸気機関車が走っていた頃の小さな客車が移されてあって、ここも子供たちの良い遊び場となっていた。

 15年程前迄は、まだ何となく広場だったことを思わせる所が残っていたが、今は全くの薮になってしまった。建物の跡も、遊具も、その痕跡すら残っていない。しかし、考えてみれば山で鉱石が発見され、この地に社宅群が建築される以前の姿に戻りつつあるとするならば、自然に対して、この故郷の山河に対して「永い間、どうもありがとう」と礼を言わなければならないのかもしれない。

参照画像。
http://blogs.yahoo.co.jp/yabukarasu/14644854.html
http://blogs.yahoo.co.jp/yabukarasu/7935583.html
http://blogs.yahoo.co.jp/yabukarasu/7726333.html

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