緑の谷・赤い谷*

新潟県にかつてあった鉱山の記録と周辺の昭和の記録と・・・お散歩。(旧名「猿と熊の間に」)

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2009年05月

 今頃の季節になると無性に笹団子が食べたくなる。日鉄に居た頃は家族みんなでその材料を裏山に採りに行った。蓬の新芽を摘み、笹の若葉を手折り、スゲを苅る。蓬と笹は女や子供にもとれるが、スゲは急な斜面に生えている為とるのは父の役目だ。父がちょっと頼もしく見える一時だ。

 家に帰れば祖母と母が中心となって笹団子を作り、ついでに作ってくれた亀の形をした草団子が嬉しかった。三角形のちまきも作る。笹で作った三角の容器にもち米を入れるくらいは子供も手伝ったろうか。完成すれば、それらは窓辺に張られた針金に吊るされる。10個一束にされ並び吊るされた笹団子は、子等にとっては至福の境地である。

 そしてその中から一束ずつを兄弟に分け与えられる。私らはそこから一つもぎってはポケットに突っ込み遊びに出かける。三日が経ち四日が経ち団子は段々少なくなる。兄弟にはここで性格と幼さが出てくる。たいがい最も早く無くなるのは末っ子の弟だ。そうなると末っ子の常套手段である泣きわめきが始まる。そして、かくも理不尽な一言が親から降ってくる。「お兄ちゃんなんだから一つ上げなさい!!」。あ~ぁ。

 笹団子は各家庭で作っていた。したがってそれぞれに味が違う。こしあんの所もあれば粒あんの所もある。甘さも皮の感じも違い、スゲでの括り方が違う家もあった。

 昨年の六月に同級会があって新発田を訪れた。笹団子が欲しくて笹団子を探し町中ウロウロした。あげく駅の近くでやっと小さな団子屋さんを見つけた。どうやらそこは笹団子を専門に作っているようだった。話好きのご主人で話し込んでいる内に東赤谷の話になり、なんとその主人の母上は日鉄に行商に行っていたとの事で、子供の頃良く一緒について行ったそうである。私の祖母は世話好きで、時折行商のおばさんを家に上げては一緒にお茶を飲んでいた。きっとその中の一人であったかもしれない。

 ご主人との話も途中で電話が入り私はそっと店を出た。しり切れとんぼになってしまった話は、再び帰郷の際に確かめてみたいと思っている。

 嗚呼、笹団子が食べたい。
笹の葉が団子に付かず綺麗に剥けた時、得も言われぬ幸せ感があった。

嗚呼、笹団子が食べたい。
 

鉄道に関する本をたくさん出している作家に「宮脇俊三」という人がいる。その多くの本の中で赤谷線や東赤谷駅のことを書いている著作は気がついた中では2冊である。昭和59年2月刊行の「終着駅へ行ってきます」と、平成6年1月刊行の「線路の果てに旅がある」だ。

「終着駅へ行ってきます」では昭和57年9月に赤谷線に乗ったときの状景と風景を淡々と書いている。東赤谷駅のことは、そのころ駅長であった佐藤さんの談話を交えて、廃線迫る赤谷線のことを少ししんみりした気分で書いている。

「線路の果てに旅がある」では最初に東赤谷を訪れてから9年後の平成3年8月の廃線となった赤谷線跡をたずね、駅長であった佐藤さんに再会して、その交流を書いている。

「終着駅へ行ってきます」で書いた「東赤谷」という文章は宮脇俊三自身も気に入っていたらしく、自身が編集責任者になった「日本の名随筆」というシリーズ本の中の「駅」にも掲載している。何かちょっと誇らしく思える気分である。

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父が日鉄鉱山で採坑夫をしていた時に掘った石である。こちらに越してくる時に幾つか持ってきたが手元にはもうあまりなくなってしまった。掘っている時に突然ポッカリと穴が空くと色々な石や色の結晶が出て来たそうである。私は石の名に詳しくはないが、この石は黄銅鉱だったと思う。

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 今日はお天気が良かったので家族で東秩父村の和紙の里へ行ってきました。実はここの蕎麦がとても美味しいのです。お蕎麦の写真は食べるのが夢中で撮るのを忘れてしましました。

ポピーがたくさん咲いていました。
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築400年という紙漉きをしていた家です。
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何故か同じ敷地内の片隅に昔の消防車が雑然と放置されていました。珍しいので撮ってきました。
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どの程度の放水能力があったのか分かりませんが、人間と火との戦いが感じられます。

 晩春の頃、東赤谷周辺はタニウツギのピンクの花で覆われる。山々といわず、人々がよく通る道の脇にでさえ、この花は悠揚として咲き誇る。

 普段いたずらな子供たちも、この花に関しては決して手折る事はしない。いや、手折るどころか触れる事も無ければ近寄りもしない。子供の中には、この花を見つけると遠回りする者さえいる。私たちはこの花を「ダニの木」と呼んだ。この綺麗なピンクの花の中にはダニが棲んでいると心から信じていた。いつ頃、誰に教わったか記憶に無いが、東赤谷の子等は皆そう信じていた。

 この時期になると町からハイカーや登山客がたくさんやって来た。飯豊方面に行く本格的な登山者は別として、焼峰・爼倉への登山や、近くの野辺に遊びに来た若者たちは実にはなやかで賑やかなものがあった。彼らが帰りの汽車を待つ間、東赤谷駅や購買所周辺は一時彼らに占拠されてしまう。そして、その中の幾人かは、この「ダニの木」の枝を担いでいるのである。それを遠目で見ている私たちは、本当に心から同情して囁き合うのである「ダニの木なのにねぇ~、しらねんだなぁ~」・・・と。

 後年、ふと思い立つ事があった。あの言い伝えは、誰か賢明な大人がこの木を大切にするようにと、そのように広めたか、あるいは「タニウツギ」という名を聞いた少しおっちょこちょいな子が「ダニウツギ」とでも聞き間違えて「ダニの木」になったのか、何れかのような気がするが私的には前者の方が何かロマンが感じられてよろしい。

 これと似た事でもう一つ、私たちは決していたずらをしない鳥があった。それはセキレイという小鳥で、神様の使いと信じていた。これも後年何かの機に知ったのであるが、セキレイと云う鳥は神代の頃、人間の子作りを手助けしたらしい。男と女がいかなる動作をしたらよいものか悩んでいる時に、セキレイが現われて教えたらしい。ブログ上にて細かな表現は差し控えるが、どうかセキレイが地上に止まっている動作を想像して欲しい。

 あの当時を思い起こしてみると、訳も無く疑う事も無く心から信じる事柄が子等には多かったような気がする。

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