緑の谷・赤い谷*

新潟県にかつてあった鉱山の記録と周辺の昭和の記録と・・・お散歩。(旧名「猿と熊の間に」)

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2010年01月

 鉱山の採鉱現場まで行くのに父達は小さな電気機関車に牽引された「人車(じんしゃ)」というトロッコみたいなものに乗っていったのであるが、他にも保育園の遠足や飯豊方面の登山者も乗せた事があったようである。
 私も高校時代に現場近くの事務所で地形図のトレースのアルバイトをした事があり、その時にこの人車に乗り通勤をした。乗り心地は決して良くなく、尻に直接振動が伝わり途中からのトンネル内では隣の人の話し声さえ聞こえない騒音があった。毎日通勤に使う父達は小さな座布団を尻につけて通っていた。


写真は昭和39年の保育園の遠足時の一コマである。(ゆうぼさん提供)
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日鉄赤谷鉱業所には独身者(単身者)の寮が二ヶ所ありました。一棟は旧赤谷温泉ホテルの跡地にあったもの、もう一棟は三区から職員社宅に行く途中の山側にありました。ただ山側の方にあった寮は子供の時の記憶でハッキリしません。祖母が一時そこの賄いをしていた関係で覚えています。

写真は山側にあった独身寮の前で撮ったもので、昭和20年代の頃と思います。社宅内で二階建ての建物はここだけであったように記憶しています。
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昭和55年10月1日改訂の時刻表(ゆうぼさん提供)
当時の時刻表を眺めていると学生時代の通学が思い起こされる。
大雪で列車が遅れ新発田駅の待合室でテレビの大相撲中継を観ながら動くのを待っていた記憶がある。取り組みがちょうど「大鵬対豊山」の時があって、その時の待合室の人々の熱気をまだ覚えている。豊山は、おらが郷土の英雄であった。今も新発田に「豊山煎餅」はあるのだろうか?。
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東赤谷発行の通勤定期券
母が赤谷線で通勤していた頃の定期券である。
東赤谷ー新発田間。
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東赤谷ー赤谷間。
東赤谷駅には赤谷への作り置きの通勤定期券が無かったのでしょうね。この頃母は赤谷農協に勤めていました。
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 幼稚園広場には幾種類かの遊具が有った。ブランコ・雲梯・ジャングルジム・シーソー・鉄棒等である。この中でも人気の有ったシーソーは後年雪の重みで台座が大きく湾曲し遊ぶ事が出来なくなってしまった。この写真でもすでに湾曲が見て取れる。昭和39年(写真は、ゆうぼさん提供)

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ブログをいつもご覧下さっている皆様、あけましておめでとうございます。
皆様の励ましも有りまして拙いブログも新しい年を迎える事が出来ました。
今年もどうぞよろしくお願い致します。

 日鉄社宅のかつての住人の皆様、お元気でお過ごしでしょうか。
鉱山が閉じられてから幾年月が過ぎ、自然に還りつつある彼の土地には私たちの帰る家は有りませんが、焼峰を始め社宅跡を巡る山々は今も変わらぬ姿を見せております。
 あの地に生まれあるいは育ち、そして離れて日本各地で2010年の正月を迎えている皆様に幸多かれと心よりお祈り申し上げます。

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