緑の谷・赤い谷*

新潟県にかつてあった鉱山の記録と周辺の昭和の記録と・・・お散歩。(旧名「猿と熊の間に」)

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2014年06月

県庁前駅は、1936年(昭和11年)に竣工した。
1985年(昭和60年)に県庁が移転したあと、白山前駅として存続する。
1992年(平成4年)に東関屋駅との間が廃線になり、同時にこの県庁前駅(白山前駅)も取り壊される。

写真を見ると何とも風情のある駅だ。左後方の高い建物は小林デパートと大和デパートか・・・。
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昭和28年、トーマスさん撮影。

 1964年6月16日午後1時1分、高校生の私は理科化学実験室にいた。その教室のある校舎は古く、明治時代の建築と聞かされていた。
 教室のすぐ脇には幹線道路が走っていて、ダンプなどの大型車両が通るたびに揺れた。だから、その時の揺れもいつもの事と思い授業は続けられた。
 しかし、なかなか揺れは収まらない。そればかりか段々と強くなってくる。やがて平静を保っていた先生の顔色が変わり、我先にと教室の窓から外に飛び出していった。
 生徒はと言えば、出入り口から廊下に飛び出す者、先生の後を追って窓から飛び出す者、床にかがむ者、まさにクモの子を散らすとはこの事かと思うくらいに混乱した。
 このとき私はどうしたかというと、関東大震災を経験している祖母の教えを守り、大きな実験台の下に潜り込んだ。他に2・3人そのように潜り込んだ者が目の端に入った。
 揺れはどんどんと激しくなる。床は弾み、体を支えるのさえ難儀に思えた頃、実験台の下に潜り込んでいた同僚が不安に耐えきれなくなったのか、一人飛び出し、二人飛び出し、とうとう教室に残るのは私一人になってしまった。
 こうなると、もう私も耐える事ができない。胸いっぱいになった不安を吹っ切るように教室から校庭に躍り出た。不安顔の集団にさり気なく紛れ込んだ私は、とても安堵した気持ちになった。
 これが発生直後の新潟地震の私である。

 この地震で赤谷線は赤谷の不動橋鉄橋の橋桁がずれたり、沿線の地滑りがあったりして不通になってしまった。
 新発田市内まで通っていた日鉄社宅の人々は、当時諏訪町にあった日鉄の寮に三々五々集まり、会社の手配した車で東赤谷の社宅まで無事に帰る事ができた。
 その後しばらく赤谷線の不通が続いたが、社宅から新発田までの通勤通学は、やはり会社の手配した車によって1日も休む事なく続ける事ができた。
 この時の事は今でも父親の会社に感謝している。そして最も感動して今でも忘れられないのが、人員輸送に関して最優先にしてくれたのが学生で、それも何故かその担当の職員は職員社宅の自らの子ではなく、坑員社宅の子を先に乗せてくれていた事である。
 日頃どこかで社宅という特殊な社会環境を感じていただけに、とても驚いた分、50年目となった今でもはっきりと記憶に残っているのである。

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この写真を見て思わず口ずさんでしまったのが国松さまのお通りだいである。

それで久し振りにYou Tubeで聞いてみたのだが、どうも私の憶えている歌詞と違う。メロディもちょっと違う。

私の「国松さまのお通りだい」は、
ドンガードンガラガッタ ドンガードンガラガッタ
くーにまつさまの おーとおりだい
やーねーの こねこちゃん こんにちは
・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

というもので、本物に比べて「ドンガー」が足りないし、「やーねーの こねこちゃん こんにちは」なんて歌詞はどこにも無い。

なんでこんな風に憶えていたのか、全く記憶がない。そして憶えている歌詞はここ迄である。

きっと私はこれから先も、ずっとこの歌詞で口ずさんで行くと思う。

さてこの写真、国松君(ガキ大将)は間違いなく真ん中の背の高い子だろう。

昔はこのような集団を村々のあちらこちらで見かけたものだった。

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