緑の谷・赤い谷*

新潟県にかつてあった鉱山の記録と周辺の昭和の記録と・・・お散歩。(旧名「猿と熊の間に」)

以後、FC2ブログからの更新になります。下記よりよろしくお願い致します。 緑の谷・赤い谷** https://yabukarasu.blog.fc2.com/

2015年02月

日鉄社宅は、ほぼ四方を山に囲まれているのですが、その山の代表格として近しいものから上げれば「焼峰山」「俎倉山」「蒜場山」と言った所でしょうか。

すぐの背後には「棚橋山」がありましたが、あまりに近かった為か私たちは単に裏山と呼んでいました。「棚橋山」と名前があるのを知ったのは、後年故郷を離れてからのことでした。

「焼峰山」と「俎倉山」は学校の集団登山の対象になっていましたし、「焼峰山」に至っては校歌の歌詞にも出てきて特に近しく感じていましたが、「蒜場山」はその奥が窺い知れず、一種畏敬の念を以て眺めていたような気がします。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

一区のほぼ全景と会館や選鉱場が写っています。右奥の山が「蒜場山」です。昭和40年後半あたりの撮影と思われます。
イメージ 1


提供:菊池さん。

1939年(昭和14年)に日本鉱業が設立され、赤谷鉱山は本格的な採掘に入った。いずれ日鉄赤谷鉱業所となるのだが、その時点を日鉄社宅の元年とすれば、閉山された年が1977年(昭和52年)であるので実質その存在期間は38年でしかない。今この歳になって考えれば、実に短い期間である。

かつて社宅のあった地は「国ヶ平」と呼ばれていた。赤谷村の出稼ぎ歌の中には「国ヶ平のお杉さん」と言う言葉が入っているくらいに大きな杉がたくさん生えていた所らしい。

その杉林を伐採し造成して社宅棟を建てた。それも重機とか無いので全て人力で行ったと当時の人は語っている。会館を建て、購買所を建て、共同浴場を建て、診療所も床屋も保育園も浄水場も、働く人々が生活に必要なものは全て作った。

植林されているとはいえ原野に忽然と町が出現し、そして半世紀に満たないうちに消滅し、今また原野に戻ってしまった。当初、私は故郷が消えた寂しさから「ここ迄徹底的に壊滅しなくてもいいではないか」と思っていたのだが、今は考えが変わった。自然に還れば良いと思っている。早く太古の静けさに戻ってくれとさえ思っている。

多くの人々を飲み込んで日鉄社宅は38年間で消えた。そして本年2015年(平成27年)、その同じ年月である38年が経った。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

昭和10年代後半から20年代初頭の撮影と思われる。右奥は整地されてはいるが、まだ社宅棟は建っていない。保育園もこれからのようだ。
イメージ 1


昭和20年代後半から30年代初頭の撮影と思われる。右側に保育園が出来、真ん中の大きな建物が壊され広場となっている。壊された建物は朝鮮人労働者の宿舎と思われる。
イメージ 2


昭和40年代の撮影。社宅も時を経て何かすっかりと落ち着いた感じがする。
イメージ 3


昭和40年代後半から50年代初頭の撮影と思われる。桜の木も大きく育ち、周囲の山々の木々も生長が目立つ。奥側の建物はすでに無い。ここからいくらも時を経ずして社宅は消滅に向かう。
イメージ 4


1枚目:ゆうぼさん提供。
2・4枚目:菊池さん提供。
3枚目:日鉄鉱業四十年史より。

子供の頃、風邪を引くと、体はつらいながらも一つの楽しみがあった。

母が、そういう時に食べさせてくれたミカンの缶詰である。

熱で火照った体に、冷たいミカンの実や甘いシロップが、とても気持ちよかった。

今も、このように風邪を引き、熱で体が気だるい時は、ついついと思い出してしまう。

↑このページのトップヘ