緑の谷・赤い谷*

新潟県にかつてあった鉱山の記録と周辺の昭和の記録と・・・お散歩。(旧名「猿と熊の間に」)

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2015年04月

旧日鉄社宅より南東方向500メートル程の所に、「すけべ沢」という沢あり。その名の謂れは知らず。

わたくし考え得るに・・・
一つは、人の名前がついた。飯豊川で言えば、孫衛門沢とか清十郎沢とか文平沢のようにである。であるからして「助平」というマタギか何ん人かの名が着き、それが「すけべ」になった。

一つは、あの沢で何らかの「すけべ」と言われ、その名が着いても仕方が無いような行いがあった。それを後人が正式の名があったにもかかわらず、「すけべ」な沢と言い習わしてしまった。

一つは、沢の形状がいかにも「すけべ」と言い切ってもおかしくない風景を醸し出していた。あるいは以前あの沢の周辺はポカリと開け、小さな田んぼがあったりしてたが、男女が山仕事の帰り道にその気になりやすい場所であったとか・・・。

まあ大体こんな所かと思わるるが、わたくしとしては是非とも二番目の事例を最大候補に上げたい。いかにもおおらかな村人が好む所の淫靡な香りがして神秘性もあるではないか。

「かあちゃん、すけべ沢に行ってくるね」「すけべ沢かい!、気をつけて行っといで!!」。通常の会話では、母子でなかなか「すけべ」なぞという言葉が平気で出てくる事は無い。そういった意味で、あの「すけべ沢」は非常に貴重な存在だったのである。

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あれだけ清らかに糸を引くように流れ落ちていた沢は、この様な哀れな姿になってしまいました。近くの田んぼは荒れ野と化し、周りは鬱蒼とした杉林になっていました。
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本当は日鉄の桜の写真を載せたかったのですが、盛りはとうに過ぎ、枝に数輪の花を残すのみとなっていたため諦めて、裏山を散策中に出くわした「すけべ沢」を題材に致しました。これもまた、かつての日鉄の住人の皆様には懐かしい所ではないでしょうか。
平成27年4月26日撮影。

平成26年度で赤谷小学校は閉校になってしまったが、今から43年前の昭和47年(1972年)3月に赤谷中学校は閉校になっている。赤谷、五十公野、松浦、米倉の中学校が統合され東中学校となった。

赤谷中学校が赤谷小学校から分離移転され、新築校舎となったのが昭和33年(1958年)であるから、建物としては僅か14年の存在だったのである。赤谷小学校の残した歴史が140年になるので、そのちょうど十分の一の数字になり、何か因縁を思わずにはいられない。

しかし、たったの14年といえども、この間の卒業生は相当に多かったはずで、その後の赤谷小学校の卒業生の数を上回っているのではないかとさえ思ってしまう。

校舎の残っていた頃は、「赤谷中学校」と検索すると心霊スポットとして数多く出てきて嫌な思いをしたが、今は全て取り壊され更地になったと聞くと、それはそれでとても寂しい思いがする。

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赤谷中学校の最後の在校生。まだ、こんなに居たのですね。
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閉校記念のカードのようです。サイズは名刺大です。
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提供:トーマスさん。

東赤谷の雪解けは遅い。
4月、子供たちの一所懸命の雪掻きの対価として、大地にわずかばかりの土が顔を出す。
それは日々に広がり、陽に照らされ乾き、ようやく待ちに待った子供たちの遊ぶ場になって行く。

五寸釘というものが各家には必ずと言って良い程あり、男の子ならば必ずと言って良い程、一本は確保していた。
二人の男の子は互いに一本ずつ持ち、それを代わる代わる地面に打ち込んで行く。
打ち込んだ点と点を線で結び、相手の釘を囲み込んで出れなくさせたら勝ちだ。
雪の下に長い間眠っていた土は、まだ柔らかく、手元から打ち込まれた釘は面白い程ストんストんと地面に刺さっていった。

地面にいくつか小さな穴を不規則にあける。それはまるで連なった蟻地獄の巣のようだ。
ビー玉を地面に置き、その穴をめがけて指ではじく。
端の穴から順番に、うまく命中して入れば次々と先の穴に進める。
最後の穴に早く到達した者が勝者となる。
今でいうミニゴルフのビー玉版という所か・・・。
周りには解けきらぬ雪がまだ残る。
それが解けて小さな流れとなる。
流れはやがて蟻地獄の穴を埋めていく。

かつて3月・4月という季節は、駅のホームのそこかしこで「バンザーイ、バンザーイ」という声が良く聞こえたものである。

転勤族や就職・進学での移動組、あるいは新婚旅行。それはホームで輪になって行われたり、昔の電車とて開け放ったデッキや車窓で行われていたものである。

その「バンザイ」と名の着いた橋が故郷にある。その橋は赤谷小学校の下を流れる加治川に架かる橋で、滝谷新田と赤谷本村を結び、名を「万歳橋」と言う。

橋の完成時に村人こぞって「バンザイ」と言ったから、その名がついたと聞く。いかに村人の喜びと感謝の気持ちがこもっているかが分かろうというものである。

しかし橋が出来て、それほどの喜びが爆発した理由とは何だったのだろうか?。時代を幾百年かさかのぼり、丸木橋や木の板橋ではそこまでの爆発は無いだろう。吊り橋か?、それも人が渡るくらいではそれ程でもないだろう。となれば、やはり四輪車が渡れるような橋が出来たときではないかと思い当たるのである。

滝谷や滝谷新田の集落がある加治川右岸から赤谷本村のある左岸に渡るには峻険な渓谷を渡らなければならない。おのずと橋を架けられる場所は決まってくる。私の考えでは昭和初期辺りまで人々の往来で利用していた橋は、現在の「朴名橋」と「万歳橋」だけであったと考えている。

「朴名橋」に車が通れるようになったのは、私の中学生くらいだったから比較的新しい。ですので「万歳橋」が一番最初に車が通れるようになったのである。それならば納得がいく。私だって諸手を上げて万歳三唱をする事だろう。

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昭和28年当時の万歳橋。この鉄製の橋が出来た時に「万歳橋」と名付けられたのではないかと思う。
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昭和42年に架け替えられた「万歳橋」。
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提供:トーマスさん。

平成26年度、3月31日をもって新発田市立赤谷小学校は閉校となった。
創立は明治7年(1874年)、140年の歴史を刻んだ。
ここに校歌を記し惜別とする。

大和しまねの 東北に

そびえて高き 飯豊山

そのふところに はぐくまれ

流れて清き 加治の水


わが学舎を めぐるなる

自然のさまの 秀麗は

いつもけだかく やさしくも

さとすがごとく 見ゆるかな


そこにけがれぬ 高き嶺

ここににごらぬ 清き水

無言のおしえ 朝夕に

若きわれらに 語るなり


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昭和の旧校舎
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平成の新校舎
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立派な閉校記念誌も届きました。
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写真1:卒業写真集より
写真2:赤谷小学校長より

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