緑の谷・赤い谷*

新潟県にかつてあった鉱山の記録と周辺の昭和の記録と・・・お散歩。(旧名「猿と熊の間に」)

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2017年08月

お盆に帰省をしたFさんが、滝谷の蕎麦畑と思われる畑地の写真を撮って送ってくれました。

この場所は8月4日に私が訪れて、緑の中の赤い地面に「なんだこりゃ!」と、その色彩のアンバランスにビックリした所です。

私が訪れてから10日ほど経った時のFさんの写真ですが、ご覧の通り緑の芽がたくさん出ています。

あの時、何気なく見ていたのですが、かがんでもっと近くから見ていたら小さな芽が出ていたのかもしれません。今頃はどのくらい生長しているのか気にかかる所です。

話の通り、これが本当に蕎麦畑であるならば、いずれ咲く花のことが気になってきます。赤谷には赤い花の蕎麦を栽培している所があると聞くし、普通に白い花が咲いたとしても開花時の景色を想像すると、もうそれだけでうっとりとする気分です。

そして収穫の時になるわけですが、何処に行けばここの蕎麦の実を挽いたお蕎麦が食べられるのでしょう。その事が最も気になる食いしん坊がここに居ります。

8月4日に訪れた時。
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お盆に帰省をされた時のFさんの写真。
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かつてお盆の帰省には、様々な経路をたどって帰って行きました。若い気があふれていた頃は故郷の背後に覆い被さる飯豊山を越えて幾たびか帰りました。。それも主稜線をを北側から縦走したり南側から縦走したり、あるいは東側から乗っ越したりと、その苦労に意味があるとばかりに我が家まで歩いて帰ったものです。

車では旧会津街道・越後街道を通って帰ったり、当時はまだ関越道はありませんから三国峠を越えて帰ったりしました。

でもやはり一番多かったのは赤谷線を利用した帰省です。終着駅の東赤谷駅のホームにゆっくりとスイッチバックで入っていく時は、胸がわくわくと高揚したものです。

雑草の生えた土のホームに降り立ち、鉱山専用線につながる線路を渡り、数段の階段を上ればすぐに改札出口です。改札扉は3寸幅の角材で組まれており、その木肌の木目が浮いていたのを覚えています。

出口で切符を受け取る駅員さんは、小学校時代からの馴染みの人で「お帰りなさい」の言葉と共に、いつまで居られるのかなどと聞いてきます。その言葉の土地の香りが一層帰郷の喜びを深めるのでした。

今はもう鉱山も閉山になり、赤谷線も廃線になり、住んで居た集落もなくなり、人も居なくなってしまい、あのわくわくとした高揚感は随分と無くなってしまいましたが、それでも周囲に所々残る見覚えのある風物に出会えば、残火がボッと燃えるように胸が急に高まるのです。それはこの辺りが繁栄して居た頃の高まりとは違って、どちらかと言うとちょっと切ない部分があるのですが、自分の中ではそれをとても喜んでいるようなのです。

望郷の思いは年代と共に変わっていくものだと、人との話の中でも自分の中でも感じるようになりました。この先まだ何年か生きて行けそうなので、どのように変わっていくのか楽しみではあります。

望郷とは故郷があって、そして離れていればこそ起こり得る心象ではないかと思います。生まれたことに、故郷と呼べる所があることに心から感謝して居ます。

先週末、所用でちょっと帰郷をしたのですが、故郷の社宅跡の写真は一切撮る気にもなれず、のこのこと帰ってきました。

夏の藪はすごいです。踏み入ることを断固として拒絶されているようで、すごすごと撤退してまいりました。

せめて対岸に住み居ります知り人の庵へ、ひょっとしたら在宅しておられるかと尋ねてみたのですが、ご不在のようで、こちらもすごすごと帰ってまいりました。

その途中、緑系の風景の中に、だだ広くオレンジ色の地面が広がっていたのには、周囲の景色とあまりに違和感があってビックリしてしまいました。よくは分かりませんが、この辺りの地面を耕せば、かような色の土が現れるのでしょうか。

後で聞く所によれば、蕎麦畑だそうです。村内にある蕎麦屋の畑か、あるいは村の栽培地なのか分かりません。

帰りは一度通ってみたかった、中々山から剣竜峡へ抜ける林道を走ってみました。登頂部からの景色は、夏の昼時のせいもあり、遠くは霞んでよくは見えなかったものの見知った近隣の風景はよく見え、スタコラ登ってきてよかったなと思いました。

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