緑の谷・赤い谷*

新潟県にかつてあった鉱山の記録と周辺の昭和の記録と・・・お散歩。(旧名「猿と熊の間に」)

以後、FC2ブログからの更新になります。下記よりよろしくお願い致します。 緑の谷・赤い谷** https://yabukarasu.blog.fc2.com/

2018年08月

昭和36年(1961年)9月16日の朝に高知県に上陸した第二室戸台風は佐渡沖を経て、その日の夜には津軽海峡西方に達した。

新潟市では21時過ぎに最大風速30.7m/s、瞬間最大風速44.5m/sを記録し、私の住んでいた東赤谷の日鉄社宅も激しい西向きの風に晒された。

私の家は4軒棟割長屋の西側にあり、強い風をもろに受けた西の壁は、風の息に合わせて、その度に大きく膨らんだことを今でも鮮明に覚えている。

ちょうどその頃、さらに飯豊川の上流にある日曹集落は、西方に空け狭まった飯豊川渓谷に沿っての風が、強力に吹き抜けていたのである。

●最も西側にある社宅。屋根が飛ばされている。
イメージ 1

●中央の建物は所長宅で校庭に面しています。西側が開けているせいか、門扉は壊れ危険な状態です。
イメージ 2

●建物は集会所。地面には飛ばされた物が散乱し集会所も痛み、その前を人が避難中なのか走っています。
イメージ 3

●かなり危うい状態です。背景の草がビョービョーとなびいています。驚くことに撮影者は強風の最中にいます。
イメージ 4

●同じく集会所。左側が西向き。今にも建物全体が飛ばされそうです。
イメージ 5

●飛ばされた屋根の応急処置でしょうか。
イメージ 6

●ブランコをよく見れば、皆違う方向に揺れていて、まだ強い風が吹いていることが分かります。その中で屋根の修理が進みます。
イメージ 7

●東方のしっかりした会社施設のある上流集落へ子供達の避難が始まります。皆白い命綱を握りしめ、大人たちに囲まれ必死の行動です。背景に写る草木は強風に揺れています。
イメージ 8

●下流集落のグラウンドから上流集落に抜ける道に入ろうとしています。上流集落までは崖沿いの狭い道を、およそ300メートル進んで行くしかありません。強風の中、みんな駆け足での避難です。
イメージ 9

●台風一過の翌日でしょうか・・・、倒れた電柱の代わりに立木を利用しての復旧工事のようです。
イメージ 10


撮影:松岡 勇
参考:新潟気象台(過去の災害)

飯豊小学校は新潟県で、おそらく一番過酷な地に建っていたのではないだろうかと私は思っている。あるいは、ひょっとしたら日本で一番だったかもしれない。その過酷さは、このブログを通じて、おいおい分かって頂けると思う。

飯豊小学校の沿革を多少述べると、昭和12年(1937年)赤谷小学校の飯豊鉱山分教場として建設される。昭和29年(1954年)分教場が飯豊小学校として独立する。昭和43年(1968年)日曹飯豊鉱山の閉山に伴い飯豊小学校は閉校となる。

●飯豊小学校の位置俯瞰。
イメージ 1


●分教場の面影を残す昭和35年前後の校舎。

右手前が本校舎、奥が体育館。祭の屋台に子供たちが群がっております。
イメージ 2

校庭を挟んで、後ろが小学校校舎下部。三輪トラックは5キロほど下流の東赤谷駅に向かうものと思われます。未舗装の渓谷沿いの道を走っていきます。
イメージ 3

西側から、手前本校舎、後側が体育館。
イメージ 4

ちょっとボケてジオラマのようになっておりますが、校舎全景。
イメージ 5


●改築後の昭和37年前後の撮影と思われます。

表玄関の位置が変わり、生徒数が増えたのか小さな教室が付け足されています。
イメージ 6

入学の記念撮影でしょうか・・・、後ろの学校玄関入り口には飯豊小学校の名前が見えます。
イメージ 7

西側からの撮影。中央に写っている体育館が新しくなっています。撮影者はその姿をおさめたものでしょう。
イメージ 8


撮影:松岡 勇
参考:赤谷小学校百周年記念冊子ほか
※撮影年は私の推測です。また、建物も周囲の状況から推測したものがあります。

私が生まれた東赤谷の日鉄赤谷鉱山社宅集落より、さらに5キロほど飯豊川を遡ったところに加治川治水ダムがある。通常そのダムに水が満々と貯められることはない。降雨時による急激な増水がない限りである。したがってダムの上から下方を見れば、ダム建設以前の地形の面影が所々に残っていて、それをまた感慨深く懐かしそうに見つめる人たちも居る。

かつてダムの周囲には日曹飯豊鉱山の集落があって、そこの多くの人たちが生活を共にしてきた。
昭和41年・42年に起きた加治川下流域の水害は、人的・家屋・田畑などに甚大な被害をもたらした。それ以前にダム建設の計画があったのかどうなのかは知らないが、その昭和42年から8年間を費やして加治川治水ダムは完成した。以後、新発田を中心とした加治川下流域に大きな水害は起きていないはずである。

人を水の危険から守るとはいえ、そのために失ったものも大きい。かつて世界一の桜並木と謳われた加治川堤桜もそうであるし、この日曹飯豊鉱山集落もそうである。

鉱山はいずれ時代背景の変化により、閉山の運命が間近に待っているとは言えども早急なダム建設は、また周囲に住まう人々にも早急な別れを否応もなく促したはずである。

この度このブログを通じて、今からおよそ60年前、昭和30年代中頃の日曹飯豊鉱山集落と、その時代を映したフィルムをお借りすることができた。

撮影者は「松岡 勇」さんと言って、日曹飯豊鉱山で働いていた方である。直近の写真であればプライベートの面を考慮して、掲載するのに憚れるものもあるが、私は「松岡 勇」さんが生きてきた半生の証としての意味も含めて、あえて掲載して行きたいと思っている。

撮影地点はできるだけ検証した。それでも判らない所もあるし、間違っている場合もあると思う。もし、このブログをご覧になっていて、ご意見のある方が居られましたら、ぜひコメントをお願い致します。

●日曹飯豊鉱山位置広域図
イメージ 1


●日曹飯豊鉱山集落位置図
イメージ 2


●日曹飯豊鉱山集落全景
イメージ 3

イメージ 4


●日曹飯豊鉱山、下流集落
イメージ 5


●日曹飯豊鉱山、上流集落
イメージ 6


撮影:浜田 純さん
地図:国土地理院WEB地図

いつも我がブログに赤谷に関する情報を寄せて頂いている角瓶28号さんから、地元の胎内市にある「クレーストーン博士の館」という所に「日鉄赤谷鉱山」に関する物が展示されていますという情報と共に、写真が送られてまいりました。

本来であれば赤谷は新発田市ですので、新発田市が保管・展示すべきなのでしょうが、近現代の産業歴史にはあまり興味を示さない新発田市に代わって、胎内市・「クレーストーン博士の館」がこの様に大切に保管・展示してくださることに感謝をいたします。

赤谷には他に「北越製紙赤谷炭鉱」「日曹金属飯豊鉱山」などもありましたが、今や全く顧みられることはありません。大変うがった見方ではありますが、今年で150年目となる戊辰の役が影響しているのではないかとさえも思ってしまいます。(^_^)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9


写真は「クレーストーン博士の館」内、展示物。

↑このページのトップヘ