緑の谷・赤い谷*

新潟県にかつてあった鉱山の記録と周辺の昭和の記録と・・・お散歩。(旧名「猿と熊の間に」)

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2019年01月

雪の楽しさを知っているが怖さも知っている、それが雪国育ちというものだ。

冬の間、周りにはいつも死の影が宿している。どこそこの集落では、子供が屋根から落ちてきた雪に埋まって死んだとか、あるいは母子で雪崩にあい飯豊川に流されて後に下の堰堤で見つかったとか・・・、大人の話の端々にそれは聞こえては来るが、何か自分とは関係のない遠い所の事のように聞いていた。

雪に限らず自然の真っ只中に暮らす子供達は、山や川と友達でいなければならない。そうでないと命に関わるからだ。少年はそのまま自然であった。

●雪崩は大いなる冬の脅威であった。
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撮影:松岡 勇さん
昭和30年代、日曹飯豊集落にて

週初めに青梅丘陵に陽だまりハイク・・・。
青梅線軍畑駅から雷電山に登り青梅駅までノンビリと・・・、途中の陽だまりで鳥鍋を突つきながら乾杯・・・。

●こんな景色を見ながら・・・。
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●何となく艶めかしい木があったりして・・・。
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●お山の中は、まだまだお正月です。
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テレビ番組でしばしば秘湯や秘境とかの放送をしておりますが、それらを観ても私には感動が全く薄いのです。

ついつい故郷の奥にある湯の平温泉や飯豊鉱山集落を思い出して「こんなものか?」と思い、案内しているタレントの大仰な仕草と相まって白けた気分になってしまいます。

大雪が降れば集落は隔絶された世界となってしまいます。天上より都会の人々がこの世界を見ることができたなら、なんと不幸な人々であろうかと思うのかもしれませんが、そこに住まう人々は不幸であるとは微塵も思わず生活しているのです。当たり前に普通だったのです。

●雪は集落の周囲を全て閉ざしてしまいます。数ヶ月間耐えて行かねばなりません。
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撮影:松岡 勇さん。
撮影年:昭和30年代

昔日は当たり前の事として、何を考える事もなく平然と過ごしていたものが、今考えると実は大変な事であったと気が付く事がある。新潟のかつての冬の生活がそうであった。

日曹飯豊鉱山は新潟県でも大豪雪地域に位置する。それも居住区と職場は剣難な渓谷に阻められ、それこそ毎日が命懸けであった。

●居住区のある下流集落から職場のある上流集落を望んでいます。採掘場に働く人々は上流集落からさらに奥へ入らないといけません。
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●逆に職場のある上流集落から居住区のある下流集落を望んでいます。上の写真もそうですが、雪崩の跡が凄まじいです。この間を通らないと行けません。
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●崖の直下は飯豊川です。落ちたらひとたまりもありません。
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●さて、ではどうやって渡ったのか・・・。人々はトンネルを潜って通います。
雪崩の跡をトンネルに向かいます。
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●トンネルから出てくるところです。左側のトンネル出入口がわかるでしょうか。後方には鉱山事務所が見えます。
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●危険な箇所も後一息で抜けられます。
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撮影:松岡 勇さん
撮影年:昭和30年代

先にも述べたように日曹飯豊鉱山の集落は、上流と下流との二つの集落に分かれています。上流集落は主に操業施設が集まり、下流集落は居住区となっていました。
飯豊川の大渓谷にサルノコシカケのようにわずかに張り出した河岸段丘上にそれぞれ存在しておりました。
冬ともなると豪雪は集落を包み込み、孤絶し、二つの集落の行き来さえ難儀となります。

●飯豊川左岸より下流集落を望む。中央奥に見えるのが上流集落。
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●下流集落対岸より下流の袖上橋付近を望む。袖上橋の橋脚とその左側に日鉄赤谷鉱山の旧集鉱槽が見えます。かつてはここからSL1080号が鉱石を積んで東赤谷駅まで運んでいました。
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●同じく飯豊川左岸より上流集落を望む。中央の高い建物は飯豊鉱山の集鉱槽です。対岸の採鉱場からケーブルが張られ、ゴンドラで鉱石は運ばれてきます。その採鉱場へ通うために鉱員たちは左下に見える吊り橋を渡っていきます。
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●左岸からの上流集落ですが、写真を眺めているうちに思わぬものを発見。鳥居を見つけました。飯豊鉱山の山神様はこちらに座して居られたのですね。
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●その仕事場のある上流集落から下流集落を見ています。下流の居住区から人々は通わなければなりません。右寄りに点々と見えるのはこちら側に通う人々のようです。電信柱沿いが夏道なのですが、さてここを歩いて来たものでしょうか・・・。左側に切れ落ちた下には飯豊川の激流があります。
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撮影:松岡 勇さん
昭和30年代中頃の撮影

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