緑の谷・赤い谷*

新潟県にかつてあった鉱山の記録と周辺の昭和の記録と・・・お散歩。(旧名「猿と熊の間に」)

以後、FC2ブログからの更新になります。下記よりよろしくお願い致します。 緑の谷・赤い谷** https://yabukarasu.blog.fc2.com/

2019年06月

焼峰山の南面から飯豊川本流に流れ落ちる大きな沢に、ウジノ沢と袖ノ沢があります。

その袖ノ沢出合から、やや上った飯豊川右岸にある台地を袖ノ上平(袖上平)と呼び、そこから左岸に渡る吊橋が袖上橋です。かつてはこの橋の付近に日鉄鉱山専用線の鉄山駅がありました。橋を渡れば簀立沢を経て簀立沢鉱区に至ります。

前回の猿橋は、飯豊山への登拝や湯ノ平温泉への湯治の人々が明治以前江戸期より利用していたと思われるのに対し、袖上橋は鉱山開発のための橋と考えられ、明治以来3度目の開発着手になる昭和13年7月から昭和14年5月の日鉄赤谷鉱業所の設立を経て昭和15年4月の採掘開始までの間に架橋されたのではないかと想像するのです。(参照:日鉄10年史)

●昭和24年発行「日鉄十年史」より。
イメージ 1


●これも昭和20年代の写真なのですが、背景に写る貯鉱槽の姿が違います。よく見ると上部に構造物が増築されているようです。(この貯鉱槽に関しては、後にもう少し調べたいと思います)
イメージ 2


●袖上橋付近には貯鉱槽は2棟あったようです。こちらは架線の向きからして日曹飯豊鉱山用の貯鉱槽かもしれません。昭和30年代の撮影。
イメージ 3

イメージ 4


●昭和40年頃の写真です。仕事を終えた後なのでしょうね。父も居ます。
イメージ 5


●昨年、平成18年の撮影です。迂闊にも今回改めて確認したのですが、よく見ると塔(タワー)だけではなく、下部に橋桁らしい構造物が見えます。私は知らなかったのですが、後年、吊橋から丈夫な橋に建て替えられたのかもしれません。(行って確認したい・・・)
イメージ 6

イメージ 7


写真提供:2枚目_ゆうぼさん。3・4枚目_松岡 勇さん。

※FC2版はこちら https://yabukarasu.blog.fc2.com/

新発田・赤谷方面から来て飯豊橋を渡り、県道が加治川治水ダムへ分岐する辺りを猿橋平と呼びます。

大正14年(1925年)発行の「赤谷名所絵葉書」にはここの吊橋が載っていて、説明書きに「赤谷鉄山猿橋平を経て湯ノ平温泉及び飯豊山に至る吊橋」とあります。

そこから伺えることは、当時飯豊川右岸に渡る橋として飯豊橋はまだ存在せず、吊橋の猿橋を使っていたのではないかと思われるのです。後世に車道として整備するとすれば、地理的に確かに飯豊橋の方が理にかなっていると思います。

ついでに申し添えますが「猿橋」という名は、「猿橋平」にかかっている橋だから「猿橋」だろうと言う私の単純な発想です。昭和に入って赤谷鉱山に従事した方々には、「場割沢の吊橋」といった方が通りが良いと思われます。

昭和30年代の猿橋。
イメージ 1


イメージ 2


地図参照:「赤谷鉱山と飯豊鉱山周辺の橋」

※FC2版はこちら https://yabukarasu.blog.fc2.com/

「日鉄赤谷鉱山」「日曹飯豊鉱山」の鉱床は共に飯豊川(加治川)の左岸に位置していた。それに対して平坦地の多い右岸には県道や旧鉱山専用鉄道が通っており、また居住区や操業施設もあったため、対岸に渡る橋は必要に応じて幾本か架かっていた。

中で「飯豊橋」は他の橋と性格を異にし県道が飯豊川本流の左岸から右岸に渡るための橋であり、これは恒久的なしっかりした橋であったが、他の対岸に渡るための橋は全て吊り橋であった。

昭和42年、加治川治水ダムの建設工事が始まる。それによって飯豊鉱山は閉山となり、上・下流の二つの集落も消滅し、おのずと集落下にあった二つの吊り橋も姿を消した。

やがて赤谷鉱山も時勢により閉山の憂き目にあい、「猿橋」が消え、唯一軽車両も通れて頑丈だった「袖上橋」も現在はコンクリート製の塔(タワー)を残すのみとなっている。(6/29追記:橋桁もあるかも・・・後日確認)

この「袖上橋」、現在も国土地理院地図に橋記号として表示されてはいるものの通れません。しかし私には、かつての思い出をたどる上での大切な証となっています。

イメージ 1


※国土地理院WEB地図参照
※FC2版はこちら https://yabukarasu.blog.fc2.com/

そろそろ見頃かと思って行田へ古代蓮を見に行ったのだが、まだ蕾みばっかり・・・(´・_・`)。
イメージ 1


で、こんなものばかり撮ったりして・・・。
イメージ 2


イメージ 3


FC2版はこちら https://yabukarasu.blog.fc2.com/

当時のことを思えば、赤谷地区周辺の小・中学生で焼峰山に登った事のない児童はいなかったと断言できるくらいに焼峰山は人気の山だったのですが、下越地方あるいは新潟市周辺においても焼峰山は大変に人気のある山でした。
駅からのアプローチ、手頃な高さ、山頂からの眺望、変化のある登山道、そして何より標高の割に雄々しくて美しい山容は登山者を惹きつけるものがありました。
現在はもう赤谷線も廃線となり登山者も稀になったようですが、その山麓に生まれ育った私にとっては焼峰山は特別な山であり、帰郷の際に仰ぎ見れば瞬時に時間は遡り、えも言われぬ幸福感に包まれるのです。

●時期としては5月から6月にかけてと思うのですが、まだまだ沢筋にはたくさんの雪が残っています。服装も装備も靴も今の私たちの目には実に大胆に映ります。(その分、とても自由であり楽しさが伝わってきます)
イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3


●焼峰山山頂。あまり広い山頂ではないのでひしめき合っています。
イメージ 4

イメージ 5


●山頂よりの眺望。飯豊川(加治川)が蛇行している上の台地が日鉄赤谷鉱山の施設・社宅群のあったところです。
イメージ 6


●飯豊川第一発電所です。下山して来ると、ここに下りてきます。吊り橋からの撮影ですが、下の河原にも登山者がたくさんいます。かなり揺れる吊り橋だったので画像もブレていますね。(残念ながら現在この吊り橋はありません)
イメージ 7


撮影:松岡 勇さん
撮影年:昭和30年代中頃
FC2版はこちら https://yabukarasu.blog.fc2.com/

↑このページのトップヘ