緑の谷・赤い谷*

新潟県にかつてあった鉱山の記録と周辺の昭和の記録と・・・お散歩。(旧名「猿と熊の間に」)

以後、FC2ブログからの更新になります。下記よりよろしくお願い致します。 緑の谷・赤い谷** https://yabukarasu.blog.fc2.com/

2020年01月

その男の名前は伴くんと言った。

同じ社会人山岳会に所属していたのだが、ある日会社も山岳会も辞めてぷっつりと消息が途絶えた。

それから2・3年か経った頃と思うが、同じ会の後輩が北八ヶ岳の麦草ヒュッテで彼が小屋番をしていると教えてくれた。たまたま偶然にも山荘に寄ったら居たと言う。

豪快さと優しさを持った彼は、誰からも親しまれる存在であった。

昭和4?年、その年の冬山合宿の地は北八ヶ岳に決まった。

●麦草ヒュッテと縞枯山
01_S40登山(隆幸保管)03_ 10_麦草ヒュッテと縞枯山

●ベースキャンプにて
02_S40登山(隆幸保管)03_ 21_ベースキャンプにて

●樹氷群
03_S40登山(隆幸保管)01_ 6

04_S40登山(隆幸保管)03_ 0

●冷山から天狗岳
05_S40登山(隆幸保管)03_ 18_冷山から天狗岳

●伴くんとチビブス(彼はそう呼んでいた。冬を越す唯一の相棒である。)
06_S40登山(隆幸保管)03_ 12_チビブスと伴 隆

●北八ヶ岳残照
07_S40登山(隆幸保管)03_ 20

そしてこの後、いつしか彼の消息はぷっつり途絶えた。以来半世紀近くの時を経ても、私の中であの笑顔がくすむ事はな

生長を見続けられるのは・・・あと何年・・・?。

何百年後を想像してみよう。


DSC00487s

春の大嵐に見舞われ、あわや遭難かと思った中でなんとか中ノ岳避難小屋に逃げ込めた二日後、ヨロヨロと十字峡まで下りてきた。

そして野中集落の民家で電話を借り、実家に無事下山の報告をしたのだけれど、電話に出た母は気が抜ける程に何の心配もしていなかった。

ほっと息をついて辺りを見渡せば、そこにはこの言葉しか見当たらない桃源郷の風景がゆったりと広がっていた。

あれから半世紀の時が流れ、この時を笑い話とした母はもうこの世には居ないが、野中の集落には今も日本の里を思わせる風景が残っているのだろうか。

●野中部落にて。山は阿寺山。
S40登山(隆幸保管)02_ 11

S40登山(隆幸保管)02_ 5

S40登山(隆幸保管)02_ 3

S40登山(隆幸保管)02_ 10

思わぬ所から半世紀ほどの時を経て35ミリのポジフィルムが出てきた。

なぜ彼の元に長々と保管されていたのかは分からない。確かに私の撮影したものである。

スキャンした映像を見た途端、僅かではあるが若い頃の激情が蘇るような思いもした。

随分と日の目を見ないまま眠っていたものである。それを哀れに思って掲載してあげようと思う。

大して良い写真とは思いませんが、今のデジカメとは違ってバシャバシャとは撮れず、シャッターボタンへの一押し一押しに込める思いは強かった。

昭和48年2月、中央アルプス宝剣岳から三沢岳〜木曽駒ケ岳〜西駒へ。

●千畳敷カールからの宝剣岳。T氏と私は左の鞍部に出る。
01_S40登山(隆幸保管)01_ 23_宝剣岳

02_S40登山(隆幸保管)01_ 17_宝剣岳

●右から宝剣・中岳・木曽駒
03_S40登山(隆幸保管)01_ 15_宝剣・中岳・駒ヶ岳

●三ノ沢岳
04_S40登山(隆幸保管)01_ 18_三沢岳

05_S40登山(隆幸保管)01_ 16_三沢岳

●木曽御嶽山を望む
06_S40登山(隆幸保管)01_ 20_木曽御岳

新発田で実に手作り感いっぱいの素敵な新聞が発行されています。そしてそれは地域限定のローカル色豊かな新聞なのです。

その名は「ニノウジ新聞」。「ニノウジ」ってわかりますか・・・?。漢字にすると「二王子」になります。

新発田市街の背後に「二王子岳」という二百名山の一つにも数えられる美しい山容の山が聳えています。新発田周辺に生活する人々は、四季折々この山を眺め、愛で、豊作を願い、信仰の対象にもなっている大切な山です。そしてこの山の名前を冠したのが「ニノウジ新聞」なのです。

発行元は、市内で営業している「ダスキンニノウジ」という会社です。今は新潟市の方へ栄転されましたが、かつてこの営業所に勤めていたK氏が現在も編集しています。若い頃、イラストレーターを目指していたと言うだけあって、手書きのイラストが実に見事です。

また、それにも増して私が感動しビックリしたのが文字がデジタルフォントではなくて全て手書きの文字なのです。独特の風合いを持った文字が紙面いっぱいに几帳面に並んでいます。これだけで一つの美術工芸と言えるかもしれません。

私は、これと反対のDTPというデジタルな世界でフォントと画像を扱ってきました。ですので尚のこと驚嘆と感動が湧いてくるのです。

ふとしたきっかけで私のブログを目にしたK氏は、その探究心と行動力で旧赤谷線沿線、特に私の生家があった東赤谷(日鉄赤谷鉱山社宅)のことを記事にし始めました。そして今また更に奥にあった日曹飯豊鉱山のかつての姿を記事にしています。

熱意は人を引きつけるのか、鉱山集落跡で偶然出会ったかつての住人の方にもお話を聞く機会ができたそうです。これからそれらを元に記事を書いていくのでしょうが、私が掲載した写真にも様々な物語が蘇っていくことでしょう。

「ニノウジ新聞」の一部を載せます。折あれば本紙面を手に取ってみてください。きっと感動することでしょう。


ニノウジ新聞 54



ニノウジ新聞87-96 15

その89裏

ニノウジ新聞より

↑このページのトップヘ