緑の谷・赤い谷*

新潟県にかつてあった鉱山の記録と周辺の昭和の記録と・・・お散歩。(旧名「猿と熊の間に」)

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カテゴリ: Photo日鉄社宅

私は常々、昭和の東赤谷にはどれ位の人たちが住んで居たのだろうか?・・・という事にモヤモヤとした思いを持っていた。

東赤谷といっても、それはほとんど日鉄社宅の人口で、その地に18歳迄しか住んでいなかった私には、そこに何人の人々が暮らしていたのか?などとはチョッピリとも考える余地はなかった。

ところが先日、昭和36年の東赤谷における中学生徒数は56名であったという記事に触れ、ますます当時の東赤谷の人口が気になってきた。

私はブログの「はじめに」という見出し記事に「多い時には700〜800人が住んでいたのではないだろうか」と社宅棟数や当時の思い出を元に書いていて、実は、このいい加減な算定をした事がモヤモヤの原因であったのだと今気が付いた。

そして改めて調べ直してみると、関する記事が見つかった。

昭和25年、北蒲原郡赤谷村の全村人口は4,262人。
昭和30年に新発田市に編入された後の、
昭和40年、旧赤谷村における同区域人口は2,769人で、その内訳は
上赤谷〜1,095人、滝谷〜340人、滝谷新田〜552人、日曹飯豊〜266人、東赤谷〜516人でした。

昭和25年の内訳はわからないのですが、私の想像した人口700〜800人というのは、あながち外れではなかったのかもしれない。

●昭和43年頃の東赤谷日鉄社宅の全景。

社宅全体

※参考:赤谷地域新聞
    赤谷小学校閉校記念誌

皆に注視されて笑いの元となっているであろう中心の子は、いったい何をしたのだろうかと思いを巡らせてしまう。
そのすました神妙な顔つきから見ると、きっと可愛い音のオナラでも出たのではないだろうか・・・。

男の子も女の子も実に見事なおかっぱ頭であり、坊ちゃん刈りである。これは社宅の集落に一軒あった床屋の江戸っ子気質のおじいさんのなせる技である。子供の髪とて手を抜くことなく、前髪はぱっちりと切り揃え、生え際も綺麗に清潔感を漂わせている。私は今だって額をシャキシャキと音を立てて真っ直ぐに進んでいく、おじいさんのハサミの冷たさを感じ取ることができる。

頭に白いものを被っている子供がいるが、これはガーゼである。あの頃は生活環境も決して良いとは言えず、また栄養摂取の面からしても、皮膚病にかかる子供が多く、頭や手足にガーゼ・包帯を巻いている子が多くいた。かく言う私も幼い頃のアルバムを見てみると、ぐるぐると包帯を巻いた姿の写真が何枚か見受けられる。この子、左手に持っているのは花火ではないか・・・、まだまだ暗くなるには間がありそうな時間帯・・・、きっと待ち遠しいのだろうねぇ・・・。

社宅の4軒長屋の中心の前には、共同の物置小屋があった。写真の背景にも写っているが、雨が降るとその間の庇の下が、子供たちの格好の遊び場にもなった。

こうして、改めて子供たちの背景にある社宅の姿を眺めて見ると、なんと当時は多くの「木(木材)」に囲まれていたのだろう・・・と思ってしまう。物干し竿に、小さな花壇の垣根に、子供の腰掛けている縁台に、そして各家で勝手に拡張した長屋に・・・と。(軒下高く積み上げられた薪にしてもそうですね)

社宅の外れには木工所があって、そこからはふんだんに木材の端材が出る。社宅の人々は、それを大いに利用する。釘とカナヅチがあればコンピュータゲームの「シティ」よろしく、木造平屋の棟割長屋はトントンカンカンと拡張を続ける。

この写真を見てから私は、妙に木材に釘を打ち付けたくなって、ホームセンターで様々な大きさや形の端材を買い込んできた。思えば子供の頃は、こうして端材を見つけては釘を打ち付けていたものである。きっと、その時の喜びや感動が蘇ってきたのかもしれない。しかしながら、ジジイが一人で木っ端をトンカントンカンやっていたら、ついにボケたかと近所に思われかねない。ここはひとつ孫にご登場願って、一緒にトンカントンカンとやってみたいと思っている。

昭和30年代中頃、社宅(一区)にて。まさこちゃん、あいこちゃん、かっちゃん、いちゃこ・・・、みんなどうしているだろう・・・?
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資料を整理しているうちに、一番古いと思われる日鉄赤谷鉱業所社宅の写真が出てきた。これは昭和二十四年発行の日鉄鉱業株式会社「創立十年史」に掲載されていた写真で、撮影年代としては終戦後直ぐか、あるいはその少し前かもしれない。

この数年後の写真と比べると、社宅の棟数がかなり多い。最初は時代が逆かと思ったが、よく観察するとそうでもないようだ。社宅の外れの右奥を見ると開墾途中の感じもあって、伐採されていない樹木も残る。

また、背後には樹林が多く残っていて、これらの樹木は後のち社宅や施設の建材に使われたのではなかろうかと、幼少時代に覗きに行った木工所の盛んな動きを思い出して感じたところである。

ではなぜ、こんなに社宅の棟数が減ってしまったのか・・・。思いを巡らすうちに昭和二十四年頃、社宅に大火事があったという父母の話を思い出すのです。相当大きな火事で、生まれたばかりの私を負ぶって兎にも角にも逃げたという話を幾度となく聞いておりますから、多分それで焼失したのではないかと思い至るのです。

しかし、手前の大きな二階建ての建物・・・これも跡形もなく消えていますが、これはまた別の理由で無くなったと推測するのです。こちらの建物は朝鮮人宿舎だったのかもしれません(以前この裏の建物がそうではないかと推測しました)。

日鉄赤谷鉱業所には、中国人と朝鮮人が労働力として強制連行されてきていました。当時敵国であった中国人の宿舎(華人合宿と呼ばれた)は飯豊川と崖に囲まれた河川敷に、日本に統治された朝鮮の労働者は社宅に囲まれたところに宿舎があったと聞いています。終戦後、強制連行という意味合いから早々と解体されたのではないでしょうか。
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終戦前後の日鉄社宅(十年史より)。
社宅群の直ぐ後ろ、樹木の陰に隠れて屋根だけ見える建物は、ひょっとしたら位置的にも「旧赤谷温泉ホテル」の一部かもしれない(営業は昭和16年に終わっておりますが・・・)。
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昭和20年代中頃。
樹木は随分と伐採されています。奥側には建物も増えました。焼失したと思われる跡の社宅は新しいようにも見えます。
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赤色は焼失したと思われる社宅。黄色は朝鮮人宿舎と思われる建物。緑色は開墾途中と思われる箇所。
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昭和20年代後半から三十年代初頭
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昭和40年代初頭(四十年史)
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昭和40年代後半から50年代初頭
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日鉄赤谷鉱業所在籍人員推移
昭和19年と20年では激減していますが、この人数の中には強制連行された方達も含まれるのでしょうか・・・。
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※私は歴史家ではないので、推測する部分が多々あります。ご了承ください。

もはやあなたの後ろには、それほど長く道は残っていないはずです。除雪車の入らない土地には、生活に必要な長さと幅の雪道しか付けられません。

駅前の雪道を辿ってきたあなたは、やがて目の前の道が細り始め、雪原に消えていくのを確かめると、ああそこが集落の終わりかと振り返る事を決めます。

黒茶けた鉱山の施設と社宅が、真っ白な雪のはざまに広がります。さっきまで雪道に残してきた足跡は、もう他人のもののようにも思えます。

少し歩き戻って、昭和39年1月3日の昼あたり、日鉄社宅の雪景色の構図は決まりました。

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この暑い最中に、故郷の雪景色の写真を見ながら、あれこれと空想を巡らすのは、思いのほか避暑効果があって、極暑も忘れるようでありました。ご覧の皆様にも多少なりとも暑さが和らいで頂けたら嬉しいです。

写真提供:やまともさん。

日鉄社宅内での引っ越しは結構あった。親の話や自分の記憶をたどってみると、6回もの引っ越しをしている。

引っ越す荷物は、まだまだ貧困の時代でもあったし、社宅自体が狭かったので大きめの家財はリヤカーで、小さい物はそこら中にあふれかえっている子供たちが列をなして運んだものだった。

社宅の範囲は今考えれば大して広くはないのだけれど、子供の頃は十分に広かった。それでもあちらこちら引っ越したせいもあるし、鬼ごっこやらかくれんぼやらチャンバラやらで駆けずり回ったせいか、隅々まで知っていた。

おかげさんで今も目を瞑れば、バーチャルリアリティの社宅内を腰に棒切れ、肩に唐草風呂敷を引っ掛けて走り回ることが出来るのである。

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(1)この棟は、かつて4番目くらいに住んでいた所。社宅の裏側になります。奥に見える大きな屋根は保育園(幼稚園)。
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(2)こちらは表側。この棟は4世帯が入っていて、この写真にはもうありませんが棟の真ん中には共用の物置がありました。
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撮影位置。
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撮影年は昭和50年初め頃と思います。
提供:菊池さん

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